日常動作が健康を創る…身のこなしのメソッド・自然身法

江戸の魂を今に

江戸の魂を今に   出口衆太郎 2003年

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 はるかな江戸、失われれた世界。私たちは自然と共に生き、体としぐさを大切にしていた江戸人からだいぶ遠くに来てしまったようです。私は教室で、自然身法の会員は江戸人を目指そうと唱えてきました。自然身法とは、自然の法則に調和した身体、身のこなしを呼び戻すということですが、江戸はまさに自然と調和した体としぐさを基本とした社会だったようです。ですから、はるか遠くの江戸を今再び感じてみることが必要な気がするのです。
 もともと私は浮世絵がとても好きで、学生の頃より見たり模写したりと江戸には関心がありました。その後日本の古武道を始めたり、風水の研究で富士や日光のことを調べるにつけ、しだいに江戸というものが、とてつもなく深くまたエネルギーに満ちた世界であることに気づいたのでした。今、江戸文化が注目されているのは、単なる懐古趣味ではなく、平和なエコロジー文明、合議性の民主的な社会、ボランティアとネットワークの広がり、簡素ながらも粋でおしゃれな文化など、政治、経済、芸術、宗教、食事、養生などのあらゆる面で私たち現代人が学ぶべきものがあるからです。
 今年は江戸開幕400年を迎えます。江戸を見直すことは、日本人としてのアイデンティティを取り戻すことであり、落ち込んでいる今の日本の再生に多くのヒントを与えてくれると思います。忘れられた江戸を振り返ってみましょう。

(参考図書 「逝きし世の面影」渡辺京二)
  

幻妙な江戸の柔術

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 私が江戸文化に目覚めたのは、玄妙な日本の大東流合気柔術を学んだことが大きなきっかけでした。それまで日本の武道は力みと気合いばかりの形式ばった硬いものと思っていたのですが、大東流師範の岡本正剛先生の技に出会ってその思いこみがまったく外れていたことに気づかされたのでした。先生の技にはカみなど全くなく、柔らかな自然体からわずかに動くだけで、力いっぱい攻める相手を簡単に跳ね飛ばしてしまうのでした。 それはそれまで学んできた太極拳や気功武術以上に柔らかで微妙な技だったのです。 私はその合気柔術の中に、江戸の体術のエッセンスを見る思いだったのです。その日以来15年以上も合気柔術を稽古し自分自身の体を通して江戸の体術の幻妙さを実感した次第です。また英信流居合の川西泰山先生との出会いも、その柔らかなお人柄といい、力みを一切感じさせない剣技といい、何度かお会いしただけですが、日本の古武術の精妙さを見直すきっかけになりました。

(「知られざる日本柔術の世界」 山田實)

岡本先生の妙技については、「AIKI」という映画になっていますので、ぜひご覧ください。この映画は、私も親しくしていたオーレという車椅子の合気柔術修行者の実話を元に作られています。 人気俳優、加藤晴彦主演の日活映画です。
「たそがれ清兵衛」も江戸の雰囲気を描いて、清兵衛と敵役の田中泯さんとの決闘は見物です。田中泯さんは、世界的な前衛舞踏家ですが、以前、自然身法のワークを熱心にされた方です。 

神と仏が解け合う和の世界

 江戸との出会いのもうーつは日光東照宮でした。これも不思議な縁か、大東流合気柔術の宗家武田惣角に合気の秘伝を授けたのは、会津藩の最後の家老、西郷頼母だといわれており、西郷頼母は明治の神仏分離で神社化された東照宮の初代禰宜であったのです(初代宮司は松平容保)。
 江戸文化の際立った特徴は、着物の曲線に象徴されるように、その柔らかさなのです。 風呂敷のようにその柔軟性でなにものをも包みこむのです。東照宮を埋め尽くす表情豊かな獅子や龍、鳳凰、神仙たちは、江戸の職人が技のかぎりを尽くした神仏、仙界、自然宇宙であり、極楽浄土の表現でした。雀も捕らずに昼寝している眠り猫や、鉄や銅などの兵器を食べる獏は平和世界と軍縮の象徴ともいわれています。東照宮の彫刻群は、神道、儒教、仏教、道教の融和した理想世界を表現した立体曼荼羅であり、江戸の平和思想と宗教的理念の表現なのであったのです。

(「日光東照宮の謎」高藤晴俊
「歓喜天の謎」佐賀純一
「気功の森32号・日光の和気」出口衆太郎)

270年の平和を守る江戸

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 江戸のすごいところは、300年近くも平和を維持したことであり、これは全世界の歴史の中でもまれに見る長期の平和なのでした。昭和、平成が平和だといっても戦後まだ60年しかたっていないのです。江戸以前の朝鮮出兵と侵略、明治以降の朝鮮、中国、全アジアを巻き込んだ太平洋戦争とその結末としての原爆投下という悲惨な歴史と比べるととても貴重な平和な時代であったといえるでしょう。その平和への願いが東照宮に込められていたのであり、実際に実現されたのでした。東照宮には、平和外交のしるしとして朝鮮使節団から献納された鐘が残されています。江戸時代には、朝鮮とは外交関係を結んでおり、大規模な使節団が12回来日しており、日光にも三回参拝に訪れています。江戸幕府は西欧諸国からの侵略被植民地化を防ぐために鎖国制度をとったのですが、朝鮮、清国とは交流は盛んでした。またこれらの国との交易を通して西欧の最新の文物や情報も入っていたのです。

自然と共生するリサイクル文明

 100万人を擁する世界最大の都市江戸は、当時世界ではトップ級の経済発展を遂げていました。ところが西洋とは異なり無機物質による大規模な機械設備を作らず、手作業による木や土や紙や鉄による有機的文明を発展させていたのです。総てのものは、土に帰るまで徹底的にリサイクルされ、ほとんどゴミをださなかったのです。ゴミはゴミではなく、リサイクル商品として価値をもち、市場に循環していきました。今でこそ、ゴミの再処理や商品のリサイクル、エコロジーということが全世界的にさけばれていますが、江戸において、リサイクルは当然のことであり、多くの産業を生むと同時に、資源を絶やさないための知恵なのでした。
 江戸の中心の河川であった墨田川の下流では白魚がたくさん捕れたといいます。白魚は、とても汚染に弱く、清らかな河川にしか住めない魚なのです。河川が汚染されなかった要因の一つは、人糞が肥料として売買されたために、当時の欧米のように河川に垂れ流されることがなかったことが大きかったのです。下町における大家の収入が、店子から集める家賃より、店子から集めた糞尿の売上の方が多かったという記録も残っているほどです。京でも尿買がいましたし。大阪では、 糞尿の権利株の取り合いで訴訟まで起きていたのです。このことは、糞尿が商品として流通していて、土に帰り、作物の肥料としてリサイクルしていたことを示しているのです。また江戸人は自然の豊かな恵みをむさぼっていたわけではありません。山のもの(材木、薪、干草、葦など)や海のもの(魚、こんぶ、あわびなど)を収穫するにも、村ごとに「口明けの制」によって解禁日を決めて自然資源の枯渇を防いだのです。そのためか、江戸時代は材木や紙が大量に消費さたのですが、森林面積は減るどころか増え続けていったのでした。江戸が工業化していないのに世界に冠たる豊かな文明を築けた理由は、少ない自然を枯渇させないように配慮しながら、手間は懸かっても手作りの質のよい製品を作り出したことにあるのでしょう。そしてその製品が木屑や糸屑、灰になるまで何サイクルもリサイクルを繰り返して、使い尽くして自然に返したことだと思うのです。

( 「大江戸えころじー事情」石川英輔
「百姓の江戸時代 」田中圭一 )

庶民に至るまで学芸をたしなむ

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 江戸は儒教に基づく武家支配の社会でしたが、単に封建的で窮屈な社会であったわけはありません。当時の浮世絵、歌舞伎、俳諧、狂歌や戯作、落語本を見れば、江戸の自由な雰囲気が伝わってきます。寛政年間に、稲毛屋金右衛門という儒者は、幕府の勘定奉行なども学ぶほどの人気学者でしたが、内藤新宿の煙草屋出身でした。当時流行した心学者で、人気があった中沢道二の講義には、旗本や大奥の女中から一般庶民までが大挙して詰めかけたとのことですが、道二は、元は京の機織り職人だったのです。その上、平秩東作という別名で、戯作者、狂言作家としても活躍しています。このような才人は無数に出現していて、幕府もそのような才能ある民間人を代官に登用したりしました。上総佐原村の商人であった伊能忠敬も、隠居後その算学の才能が認められ、日本地図製作を任された一人です。学問、芸術は武士や金持ちだけではなく、商人から百姓農民に至るまでたしなまれたのです。

(「江戸は夢か」水谷三公)

簡素にして粋でお洒落

 オーストリアの外交官ヒューブナーはこの国では芸術は万民の所有物だと記しています。盆栽 花 髪結い、髷 着物 刀、扇子、根付 印籠 巾着 風呂敷、襖、浮世絵に至るまで、デザインやセンスにこだわるおしゃれな文化でした。しかもそのお洒落感覚は上の階級だけでなく、一般庶民にも浸透していました。江戸末期に訪れた英国の園芸家R・フォーチュンは、「 樹木で囲われた街路、常緑樹の生垣などの美しさは、世界のどの都市も及ばないだろう。下層の庶民までが、花好きで、植物を育てることを無上の楽しみにしている 」と江戸の文化性の高さに驚いているのです。今はやりのガーデニングは江戸庶民の日常の楽しみでした。また支配階層や金持ちが、豪奢な贅沢にうつつを抜かしていたかというとそうではなく、茶の湯に見られるようにわび、さびという簡素な美を最上としていたのでした。京の桂離宮や光悦寺は私のよく訪ねるところですが、数寄屋建築の粋を集めたといわれる芸術品ですが、一見しただけでは、庶民の住まいと変わらないほどの簡素な作りなわけです。これは西欧やインドなどの貴族や金持ちの豪華絢爛さとは程遠い世界です。むしろ自然と一体化するために、意図的に贅沢さや余計な装飾を避けているわけです。江戸人は、自然を愛でながら、日常の道具、着物などの粋とお洒落を楽しんでいたのでした。

(「江戸の恋」田中優子)

和楽の微笑み

 江戸初期に訪れたドイツ人ケンペルは、日本人はいつも微笑しており幸福感が溢れていると感嘆しています。明治になって、福沢諭吉は「 江戸は経済的な平等が行き渡り極楽のようであったが、国際的競争に打ち勝つためには、この内なる極楽をもう楽しんではならない。 」と鎖国をやめた日本を啓蒙しています。幕末に条約の締結に来日したハリスの通訳ヒュースケンは「 この国の飾り気のない質朴な習俗を私は賛美する。この新しい文明は本当にお前のための文明なのか。おお神よ、この幸福な情景が今終わりを迎えようとしている 」と、日本の西洋化に疑問を投げかけています。
 よく日本人は猿まね文化といわれるけれど本当でしょうか。それは、欧米化しようとやっきになってきた明治以後のことであり、平安や江戸の和の文化は、世界に類をみないほど独特です。古代から近世に至るまで中国文化の影響は計り知れないほどですが、闇雲に取り入れたわけではありません。例えば、中国の上流の女性に一般的だった纏足、後宮を守る去勢された宦官の風習、阿片などの麻薬の類はなぜか江戸にははやらなかったわけです。大麻も多く栽培され自生もしていたにもかかわらず大麻中毒がいたという記録もないわけです。これは、江戸が、当時の中国のような抑圧されたストレス社会でなかったからだと思うのです。楽しみが少なく人々の基本的な欲求が抑圧された社会は、ゆがんだ性の風習や麻薬、暴力が蔓延しやすいのです。現代の日本の町行く人々の無表情さや醒めた若者の表情は、日本がストレスの多い社会に変わってきたかを示しているのでしょう。現代人は機械化、便利さ、物質的贅沢を手に入れた代わりに、生きていることの喜びをを捨ててしまったかのようです。

(「江戸の性風俗」氏家幹人)

旅で世界に触れ、自由を楽しむ

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  江戸というと農民は土地に縛り付けられ不自由な生活を強いられたというイメージを持っている方が多いと思われますが、実際には縦横に移動や旅がおこなわれていました。例えば伊勢参りや冨士講などの巡礼は、定期的に全国規模でなされていました。行商、旅芸人、浪人、修験者など放浪の民も多く、各地に文化を伝える役割を担ったのです。成人儀礼として子供だけで旅に出されることもありましたし、女性だけの巡礼や隠居後各地を遊行することも流行ったのです。子供や女性だけの旅も盛んだったことは、いかにその頃の日本の治安がよく平和であったか偲ばれるのです。旅ができるほど経済的にも豊かだったといえるでしょう。
 また、旅は単に巡礼や娯楽というだけではなく、多くの地方や都会の人々との交流の機会であり、最新の文物に触れるチャンスでもあったわけです。旅は世界を知ることであり、人生を学ぶことでもあったのです。そして村で待っている人々は、旅人が持ち帰る情報を待ちに待っていたわけです。農家の二男、三男や女子は幼い頃より、都会の商家などへ奉公に出されましたが、職業訓練を受けるだけではなく、読み書きから行儀作法も習い、遊びから学問に至るまで都会の習俗に触れることができたわけです。盆暮れの帰省は、都市文化と地方文化の交流に大いに貢献しました。ですから江戸時代の農村は、文化の届かない野蛮な僻地ではなかったのです。地方や農村でも学問や芸術文学が盛んに行われていたのです。庶民も、行商や奉公で、町へ出る機会も多かったわけです。また上部階層も参勤交代などにより、地方文化の担い手が江戸に集ったり、また帰って江戸文化を地方へ伝えたりと中央と地方の交流が盛んに行われたのです。

(「庶民と旅の歴史」新城常三
「江戸はネットワーク」田中優子)

自然の営みに身体を合す

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 私は、江戸期の人々が寒い冬を、なぜ着物と足袋、草鞋ぐらいで過ごすことができたのか不思議に思ってきました。日本の家屋は、夏向きに出来ており、広く開放された戸窓は障子で仕切られているだけで、暖房も火鉢程度だったわけです。食生活もほとんど菜食に近く時々食べる魚以外に動物性の蛋白や脂肪は少なく、熱量の高い肉や乳製品はほとんど採っていないわけです。訪れた外国人は日本の冬は寒くてたまらないとこぼしています。
 これまでこのような問題には、江戸時代は貧しかったからと簡単に片付けられてきましたが、見当違いもはなはだしいのです。当時の江戸時代の産業、技術の発達からすれば、様々な防寒衣類や家屋の暖房装置を生み出すことなど十分可能だったと思われます。しかし、暖かい部屋にぬくぬくとしていることは、簡素を旨とする江戸人には粋でなかったのかもしれません。自然環境を人工的に変えるのではなく、体の方を自然に合せるのが江戸人の心意気だったのです。世界でも最高レベルの産業の発達をしながら、高度な車や機械を作らず、人力にほとんどの仕事を頼るのが江戸文明の特徴でした。庶民はどこへ行くのも、自分の足を使い、足を丈夫に保たねば生活できませんでした。着物の畳み方、ハタキのかけ方、布団の上げ下ろし、剣の扱い方まで幼い頃より体の作法をしつけられたわけです。江戸は「体術」の時代であったのです。江戸人は、体を最大限に活用し、自在に操り、自然のリズムに適合させる方法を選んだのです。一見厳しい文化のようですが、機械設備に頼ることは結局からだの免疫力を弱め、自然治癒力を弱め病弱な体になることをわかっていたのでしょう。自然を変えるのではなく、自分を自然に合わしていくわけです。そのことが日本人を冬にたいした防寒暖房なしでもいられるような心身にさせたのではないでしょうか。

( 「商人道「江戸しぐさ」の知恵袋」越川禮子
「身体感覚を取り戻す」斎藤孝)

体術、養生は生きる基本

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 また、今以上に養生に関心が高く、様々な健康術も流行していました。数多くの健康法の本も出版されています。本家本元であった中国の養生法は早くから輸入され、元禄の頃のベストセラーであった貝原益軒の「養生訓」には自我按摩、導引、調息などのし方も説かれているのです。江戸初期に出た喜多村利且の「導引体要」には導引術、五禽戯、八段錦などが紹介してあるのです。つまり江戸では、既に気功の源流である五禽戯が行われていた可能性もあるわけです。
 江戸を短命な不健康な世界と思っている方も多いと思いますが、むしろ実際には、長寿者はとても多いのです。家康の師であった天海僧正は108歳、富士信仰の開祖、角行は106歳、浮世絵師、葛飾北斎は90歳、剣聖でヘビースモーカーだった柳生宗矩76歳、伊能忠敬74歳、養生法の大家、貝原益軒も85歳という長寿でした。江戸は享楽的な文化でしたが、自堕落な社会ではなく、体術を基本にした養生社会でした。自然を変えるのではなく、人を自然に合していくという江戸世界では、体が健康でなければ生きていけない世界でした。ですから皆養生に強い関心を持ったのでしょう。

(「養生訓」貝原益軒
「導引体要」喜多村利且 復刻版あり)

自然を愛で、自然と融和する哲学

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 ラフカディオ・ハーンは松江の人々が毎朝上る御来光に向って祈るのを目にし、とても感動したと記しています。江戸年中行事によると江戸の庶民は、正月三日の朝、初富士を拝し富士山に向って祈るのを常としたとあります。江戸人は、人を育くんでくれる外なる大自然を大切にし、また生きる活動力の源泉である内なる自然としての身体を大事にしたのでした。ここには、人間は、自然宇宙に生かされているのであり、その摂理に調和して生きることが人間の本来のあり方であるという日本人古来からの自然への畏敬がありました。現代日本は、物や情報は溢れるほどになりましたが、自然は取り返しがつかないほどに破壊され、人心は乱れ、政治経済は糸の切れた凧のように低迷しています。ヒュースケンが危惧したように、明治以降やみくもに西洋化してきたことのつけが今おそってきているのです。古来からの自然を愛で、自然と融合するという日本人の哲学を平和と繁栄の中に花開かせた江戸人の知恵に、再び耳を傾けるべき時がやってきたのです。

(「江戸の真実」別冊宝島)

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